ゴールした[61]崩れ落ちるのではないかと思った。それほど苦しそうだった高橋尚子さんがゴール、とした表情で、笑顔さえのぞかせたのには[62]。きのうの東京女子マラソンで敗れた[63]、並のランナーではないと思わせもした。 「足が棒になってしまいました」とは高橋さんの言葉だ。私たちも疲れ果てた時に「足が棒になる」という。足がいうことを聞いてくれない。[64]引きずるように歩かねばならない時もある。高橋さんの場合は、30キロ手前あたりで急に「棒になった」らしい。それでも走り[65]。 五輪女子マラソンで連続メダリスト(注)になった有森裕子さんが—人間の能力の不思議」について語っている。走っていて、もう限界だと思う[66]走り続けると「限界は、どんどん伸びていく」。経験上の限界を突き破って伸びていとと(『わたし革命』書店)。 逆の場合もあるだろう。練習も十分積んだし、体調もいい。経験上は何の問題もないはずだ。[67]、突然どこかに変調を来す。これも[68]「人間の能力の不思議」だろう。スポーツ選手たちはいつも、どちらに転ぶかわからない境界線上を走っている。 引退を決めた横綱武蔵丸の体重は高橋さんの約5倍だ。狭い土俵で一瞬の勝負を競う相撲では、重さは強力な武器である。[69]バランスを崩すと重さは大きな負担になる。 武蔵丸も「棒立ち」になって力を出せない場面が増えていた。 限界を感じた武蔵丸は去るが、高橋さんは、[70]限界への挑戦を続けることだろう。(「天声人語」より) 注:競技の上位入賞者で、金・銀・銅などのメダルをもらった人。 67