変わった趣味をいくつももっている人に会ったので、いろいろ質問して教えられたことがある。ある単調な趣味について、そんなことが面白いのですか、と聞くと「何でもそうだが、一生懸命やれば面白い」という答えだったので感心した。この人は趣味についてよくわかっている人だと思ったのだが、それは、趣味のみならず仕事でも同じであり、結局、1人生全体についても同じなのだろうと思う。 何か面白い趣味はないかという人がいるが、一生懸命やらないのなら趣味はみんなくだらなくてつまらないのにちがいない。ゴルフでも、碁でも、釣りでも、テニスでも、何でもそうだが、下手でも一生懸命やる人と一緒になったときは、気持ちがよいのはだれしも経験があるところである。ボヤイたり、批評したりしながらやるのでは、2本当の面白さはその人から逃げていってしまう。面白さや幸福は自分の内部から湧いてくるものであって、外部に存在するものではないからである。 (中略) そういう点からいうと、間の目をいつも意識している日本人は、なかなか一つのことに熱中できない。囲から何かいわれるのが恐いので、それへのいいわけを考えたり、逃げ道をあらかじめ作ったりするので、熱中する幸福は知らないまま一生終わってしまうのが普通になっている。それだけならまだよいが、時には3他人にも同じことを要求して何かに熱中している人がいると、いろいろそのアラ探し(注1)をする。アラとして出る理由は、間への交際が粗略(注2)になっているというのがいつも第一で、仕事をしていないのではないかというのが第二である。 4そういう空気のなかで生活すると、人はだれでも知らず知らずのうちに、(1)5弱者演出 (2)被害者演出(3)不器用演出をいつも心がけるようになる。日本人社会で暮らすのに忘れてはならない三種の神器(注3)はこれで、人と話をするときは「私なんかダメですよ」とか、「いつもいいようにやられてばっかり」とか、「失敗ばかりでそんな余裕はありません」とかを必ず三分間に一回ぐらいはいわないとうまくいかない。 栄進(注4)のお祝いをいわれたときでも「三流会社ですから部長になったといっても実態はヒラ(注5)と同じですよ」とか、「ムリヤリ引っぱり出されて委員になっただけで、五里霧中(注6)です」とかの返事をしないといけないことになっている。これはもう礼儀の一種であり、たくさんの人が反復(注7)使用するので磨きぬかれて、ほとんど芸術作品になったようないいまわし方もある。 これは、対人関係円滑化の技術としては確かに有効だし、アメリカ人でもときどきはそういう会話をする。しかし決してホンキでそう思っているのでないところは、日本人として学ばねばならない。多くの日本人は演出を重ねているうちに、それが本当の自分になってしまっている。 (日下公人『新しい「幸福」への12章』による) (注1)アラ探し:欠点を探す (注2)粗略:やり方がいいかげんなこと (注3)三種の神器:何かをするときに必要な三つの重要な道具 (注4)栄進:今までよりも高い地位や職などに進むこと (注5)ヒラ:役職についていない人 (注6)五里霧中:ようすがまったくわからず、どうしてよいかわからないこと (注7)反復:も繰り返すこと 筆者がこの文章で最も言いたいのはどのようなことか。( )