チャレンジとは、独自の目標を決め、それに向かって自分を試すことである。設定した目標を目掛けて挑戦するには、まず第一に情熱が必要である。理想主義的な情熱の端的(注1)な例として私はいつも「ドンキホーテ(注2)」を思い浮かる。ドンキホーテは、あえて不可能の夢を夢み、到違できない理想を追い、破ることのできない障害に挑戦するときこそ人生が深い意味を持つとき、結果はどうであれ、その情熱に没頭し、全力を尽くす行為そのものに人生の価値があると教える。人生には、どこかで、思い切ってすべてをかけなければならない決断の時点がある。情熱がこの決断を促すのである。 1情熱なしにチャレンジはありえない。 しかし、現実世界のチャレンジには、情熱と同じぐらい、あるいはそれ以上に重要な要素がもう一つある。もし、人が情熱だけで動いたら、その行為は、りの人に迷惑であるばかりでなく、本人にとっても、つまらぬ悲劇に終わり、他人にとっては、こっけいな喜劇でしかない。それは、風車に向かってさびた槍を振りかざして(注3)突進するドンキがーテの姿が証明している。チャレンジに、どうしても欠くことができないのは理性である。 目標に向かって自分を駆り立てる(注4)熱く熱したものと、 2その行為に方向性と計画性を与える 冷たくさめたもの、すなわち情熱と理性、これがチャレンジには不可欠である。理性で割り出した方向性と計画性があってこそ情熱は高掲し、 3その情熱が強い推進力となって方向と計画の意味が深まる 。船には、スクリュー(螺旋推進器)と舵の两方があるのと同じことであろう。 (中略) 大型のチャレンジでは、情熱に身を任せると決して目標は達成されない。 4盲目的な情熱は、着実な進歩にとって不可欠な持久力を減退させる 。自分をも疑う客観性を失わせ、意外な新事実を発見する精神的余裕を乏しくさせる。 (中略) 5自己満足的な情熟は、しばしば人間をむき(注5)にさせ、ゆとりをなくし、排他的にさせる 。そうした行為は情熱的に見えても、成果は期持できない。 チャレンジとは、独自の目標に対する挑戦であり、他人との競争ではない。他人との競争意識が過热すると、 6そこに 気を取られ、目標そのものの違成のための精進にマイナスのカが加わる。そこに落とし穴がある。他人を意識し、自分との比較に明け暮れ、嫉妬心が強まり、批判を気にする。つまり、人間が防御的になる。人間の思考力には限界がある。個々の人の思考エネルギーの総合は、誰も似たり寄ったり(注6)のものだろう。その貴重なエネルギ一を防御に向ければ、その分だけ、自分の目標に集中するエネルギーは減る。 7「攻撃は最大の防御という言葉は、思考エネルギーの経済学の立場からても真理をついている。 目標達成に全カを挙げていれば、他人との比較に注意を向ける余裕さえなくなるはずだ。優れたスポーツマンは、一度試合に臨むと、最終的な勝敗さえ忘れて、いいプレーをすることに全カを挙げる。結果的には、それが勝利につながるのである。 8チャレンジの対象は、結局は自分という姿を執った人間性そのものかもしれない。 他との競争でないことは確かだ。 熱い情熱と冷たい理性が一体となって高揚するとき、最も高貴な人間性が姿を現すのである。 注1:端的/明白なさま 注2:ドンキホーテ/17世紀、スベインの長幅小说にある主人公。 注3:振りかざす/頭の上に振リ上げる。 注4:駆り立てる/そういう行動をとらざるを得ないような心的状態に仕向ける 注5:むき/ちょっとしたことに本気になること。 注6:似たり寄ったり/あまり差異のないこと。