文章1 学習や教育についての調査研究をしていると、「自分は何のために学ぶのか」についていろいろな考え方に出会う。教育心理学者もまた、さまざまな理論を出してきた。大きく分けると、「何らかの目的のために手段として人間は学ぶのだ」という「外発的」な考え方と、「人間は学ぶことそれ自体を楽しむ存在だ」という「内発的」な考え方の2つがある。 どちらの理論も、それなりに人間性のある面をついていて、もっともらしく思える。 ( 1 )、どちらかで押し通そうとすると、どこか無理があって息苦しい。そこで、学ぶということは、「なりたい自己」と「なれる自己」を広げることだと考えてみるとどうだろう。「なりたい自己」というのは、社会的役割、趣味、思想などを含めた「あのようになりたい」と思う生き方である。「なれる自己」というのは、今の自分の延長として可能な選択肢である。 私たちは、学ぶことによって、それらの自己を広げて、その重なりあうところから何かを選んで「なっていく」。なぜ学校で学ぶのかといえば、日常生活だけでは、「なりたい自己」も「なれる自己」も狭いところで閉じられてしまうからである。学校の学習に限らず、自分が何か新しいことにトライしてみることによって、「それを楽しめる自分」を発見できたり、自分の将来の可能性を広げたりできる。 昨年、ある中学校で総合学習の発表を見た。地域でさまざまな生き方をしている人の様子を見学し、ポスターにまとめ、教室や廊下を使って報告しあうものだった。その中で、私がたまたま聞いたのは、子どものために絵本をつくり、読み聞かせをしているボランティアの方に取材した女子中学生だった。 彼女の丁寧な発表から、いかに多くのことを学びとり、その方に尊敬の念を抱いているかが見て取れた。しかし、私が2 驚いた のは、「君もあの人のようになってみたいと思うの」と聞いたときの答えである。「いえ、まだ、すぐには決めません。一人の方に取材してみて、これだけいい経験ができたので、他の人からもいろいろ聞いてみたいからです」。 果てしなく広がって行く( 3 )を見た思いがした。