(三) 私の勤めている学校は高いビルの 21階にある。だから、毎日エレベーターを利用する。ある朝、いつもと同じようにエレベーターに乗ろうとすると中から声がかかった。「何階ですか」。声を聞いて若い女の子だと分かった。「うちの学生かな。」と自然に思っていたが、すぐ自分が間違ったことに気付いた。生徒だったら、私の行くのは21階だと当然知っているのだ。エレベーターには見知らぬ、会社員らしい男が3人と一人の20歳ぐらいの女の子がいた。 普段、我々は仕事か何かでもなければ、見知らぬ人に話し掛けるなどということはほとんどない。ひどい場合は、向こうからやってくる人が自分の去年の恩師だと知っていても、 1 わざと知らない顔をして、別の方向へ行ってしまう ことがないとは言えない。また、人の邪魔をした時でも、相手が見知らぬ人間なら、謝りもしない場合も少なくない。車の運転中、「バカヤロウ」や「ありがとう」のかわりにクラクションを鳴らしたり鳴らされたりするのは一日に一度や二度ではない。まあ、 2 それはそれでいいのだが 、知っている人間なのに、知らない顔をするのは、ずいぶん寂しい話ではないか。 もちろん、知らない人にも丁寧に話し掛けなくてはいけないという意味ではない。だが、その場合の状況や必要に応じて、適当な言葉を一言使うくらいの良心は持ちたい。その時、その女の子の声を聞いて、瞬間ちょっと迷ったが、なぜか嬉しくなった。