明治三十八年、漱石は雑誌「 1 」に、初めて小説「 2 」を連載した。この好評は翌三十九年同誌に「 3 」を発表させた。これはあたたかいユーモアと鋭い風刺とを同時に含んだ、明朗上品で技巧のすぐれた滑稽文学であり、その風刺の裏には虚偽と俗悪とを憎む、作者の強い戸っ子的な正義観がみなぎっていて、不作為無道徳を標榜した暗い( 4 )文学とは明らかに異なったものだった。次いで同年発表した随想的小説「 5 」の中では、詩人 ・ 画家などの天職というものは、この住みにくい世の中をどれほどかくつろげて、つかの間でも住みよくするところにあると言い、また二十世紀の世俗の喧騒をいとって、無為無欲の漢詩のような東洋芸術の境地に憧れる。これらの作品は、人生と四つに組んで血みどろの格闘をして、その出血の記録をつづるというような文学とは対立する悠々自適の境地であり、世人はこの特徴をとらえて、俳譜派 ・ 余裕派と呼び、また低徊趣味と名づけた。