私が親元を離れ、一人暮しを始めのは27歳の時だった。27と言えば決して早い独立の年齢ではない。それまでずっと親元にいたのは私の親が、ことに父親が女は結婚こそ一番の幸せ、と思っていたためで、一人暮しをしつつ仕事で身を立てることなど もってのほか (注1)、と考えていたからだ。それを1 変えざるをえなかった のは、2 前の年の暮れ 、私が独断で式の日取りまできまっていた結婚を、ただ嫌になったという理由だけて断り、親3 中 を巻き込んで大騒ぎをした挙句、親子の間が妙に こじれ (注2)始めたからであった。無理にでも結婚させる、という父と、いやだ、と言い張る私の対立は家の中を暗くするばかりだった。 これ以上この家にいられない。そう思ったのは私ばかりでない4 らしく 、独立の話を切り出すと、5 父はしぶい顔でうなずいた 。この先結婚もせず一人でいきていくのなら、しっかりした仕事をもたねばいけない。そのためには親に頼らず一人でやっていくのが一番だ、と母が言い切ってくれたのだった。 引越すの朝、6 その母 が娘が不びんだと泣いているのを庭にいて立ち聞いた。無理もないのだ。その頃私はイラストを描く仕事をしていてろくな収入を得ることもできなかったのである。友人と飲むお茶代すら出せないような状態だったのだ。飢えたりはしなかったが贅沢はけっしてできない生活だった。スーパーの菓子売り場で甘納豆の袋を見つめ、7 来月こそ、と思ったこともあったのだ 。 8 そんな耐乏(注4)生活 を続けていたある日、私はプラスチックのこめびつの中にセロテープでしっかり止めてある紙を見つけた。それは母が用意してくれたこめびつで、引越す際その中に米をいっぱいいにして渡してくれたものだ。食べ進んで残り少なくなった時現れたそれは、母の字で、お米を買うお金がなくなったらこれで買いなさい。健康に気をつけるように、と書かれた手紙と小さくたたまれた五千円札だった。9 涙がこみあげ(注6)てきて私は泣いた 。ずっとずっと泣いていた。 あれから六年、ずっと独身を通すだろう、と思っていたのにどういうわけ今は結婚している。おかしなもので、夫は母の手紙と五千円の話を聞き、私とつきあうことを決めた、という。 父がその手紙の事を知り、「10 お母さんは出しぬいてずるい 。」といったというのもよかったのだ、と。 ある時、母が夫に、あの時千円でもなく、一万円でもなく、五千円にした私の気持ちを娘は分かるだろうか、といっているのを聞いた。残念ながら私にはよくわからないがひょっとしてそれは、娘には一生わからない母の気持ちではないか、とまだ子供のいない私は思っている。 「注1」もってのほか:とんでもない(こと)。 「注2」こじれ(る):事態が悪くなる。 「注3」不びんだ:かわいそうだ。 「注4」耐乏:物質が少なくて暮らしにくいのを我慢すること。 「注5」こめびつ:米を入れて保存する箱 「注6」こみ上げ(る):いっぱいになって、押さえてもあふれ出そうになる。 78.3中の意味用法と同じものはどれか。